wunderkammer : Etudes pour Ecriture

今の気分の備忘録、あるいは、過去の自分の生き直し

13

よくラジオ番組を聴いている。もっぱらお笑い芸人が、二人組であればお互いの話題を持ち寄ったり、一人であれば放送作家が合いの手を入れる中で漫談のようなことをしているのを、深夜に独り聴く時間は乾いた生活における唯一といっていい豊かな贅沢であり、何よりも楽しみなことのひとつだ。聴衆との交流という大義名分こそあれ、多くは時間を潰すためのもの、形骸もしくは「成れの果て」に変わり果ててしまって久しいであろう「コーナー」を行っている時間には、私はほとんど興味を持つことができないが、それでも何となく、全部だらだらと聴いてしまう。

「実家の母と話すときの話題のとりとめのなさ」

先日ハライチの岩井勇気トークの中で取り上げたこのテーマが、私の精神の端に引っかかって今も離れないでいる。当初はただ笑って聞いていたのを、時間を経るにつれきわめて真剣に考えだしているのだ。実家に帰った時、たいていの場合は船着き場や空港の到着ロビーから車で一度実家に戻る。車に乗っておおよそ15分程度、ここでまず母と何ともなしにする会話の内容を、私はただのひとつも思い出すことができない。何となくこんなものだっただろう、という想像をするのならば、それらは親戚のおじさんおばさんの最近の体調の話であったり、誰かが亡くなったという報告、また近所にできた新しい商店の繁盛具合といった、いずれもそれらが話題に上ること自体が唯一の目的であって会話を繋ぐことは必要としない、言ってみれば独り言のような内容のものばかりだ。だが、私はその話を聞いて、これも何となくではあるのだが「ああ、実家に帰ってきたんだな。」としみじみと実感と感嘆を伴った感想を、確かに心で漏らさないでいられなくなる。その話題に話としての面白さはなく、むしろ深入りしたところで霧のようにふっとなくなってしまうような儚いものではあるのだけれど、その端々から生々しい生活が、そして裏側からはどこかうら寂しく漠然と「死」を予感させるようなものを感じる。実家で暮らす人々の寝食をすぐそばで見聞きし、息遣いすら聞こえてくるほどに顔を近付けて初めて感じることのできる生活の「臭い」であったり、廃墟に魅入られてつい這入り込んでしまうときのような死の「匂い」である。そしてそのにおいが私の精神の端の方で眠るようにして潜んでいる「実家の感覚」を呼び起こすのだと思う。

昼前の、騒音などどこからも聞こえてくることなく、外に干した洗濯物がさわさわと風にそよぐ音だけがする中で読書をしていた時間。昼下がり、寝転がりながら部屋に差し込む陽光を眺めていると、その作り出す影が時間を経るに従ってその姿形を僅かずつ変えてゆく光景。夕飯を食べた後あてもなく出かけた時に向かいのスナックから聞こえてくる、酒に酔ってほとんど聴けたものではない知らないおじさんのカラオケの歌声や、夜更かしが過ぎてしまい起き通しになって朝を迎える頃、明けかけた空を割るように響くクシャミの一音もそう。ろうそくの炎がひとつずつ灯されてゆくように、これらのシーンがふと頭の中に浮かぶ。実家での生と死のにおいのついた出来事が私の精神の中に巣食うように存在し、ハライチ岩井がした「実家の母と話すときの話題のとりとめのなさ」の話が、実家に帰った時に交わす母との会話のようにそれらを呼び起こしたということだろう。

「実家の感覚」について、もう少し突き詰めて考えたい。生の臭いや死の匂いを伴った独り言のような話を表現として成立させてみたい。私小説の可能性、等と言ってしまうと大分大袈裟な言い方だから、ここは「私」の可能性と言っておきたいと思う。

広告を非表示にする