wunderkammer : Etudes pour Ecriture

今の気分の備忘録、あるいは、過去の自分の生き直し

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モノを売ったり買ったりすることについて、並行輸入品という特殊な商品を取り扱う業界に身を置くようになって疑念を抱く瞬間が多くなってきた。社会人として、もっと言うのであれば「大人」として、うまくやっていくためにはこういったことを深く考えることはせずに会社の利益を優先しなくてはならないだろうし、自らの出世のために結果を残し続けなければならないだろう。つまりこれから考えながら書いてゆくことは実生活上考える必要のないことであり、ともすれば考えてはいけないことなのだろう。だが私はそれを考えずにはいられない。

モノには定価というのもがある。それは購入するうえでも販売するうえでも常についてまわる、売買行為におけるひとつの基準だといえる。もちろん基本的にはモノを定価で買い、また定価で売るのが常識であるのだが、その定価を度外視して購入・販売できるのが並行輸入という商品の仕入れ方法だ。定価という基準は国によって異なる。それは○○・ジャパンなどという名称の日本国内での正規代理店が存在するためであり、国内正規代理店が一定の基準のもと価格を定めるのが定価という仕組みだ。そして並行輸入という方法はその国ごとの定価の違いであったり為替の差などから日本の定価とは違う価格で大量に(一度に大量に購入することでの値引きもあるのだろう)仕入れるのだ。多くの場合定価よりも安くなるのだが、中には日本国内の正規代理店でほとんど取り扱いがない(できない)商品に関しては定価を上回る「プレミア価格」になることもある。

前提としてそうした仕入れ方法による価格差が生じるなかで、モノを買うとはどういうことなのだろうか。私は購入する行為を使用の前段階である、販売者あるいは製造者、そしてそのブランドに対し、敬意をもってその対価を支払うための行為だと考えている。つまり価格とは販売者・製造者・ブランドをどれだけ評価しているか、そしてそのためにいくら支払えるかを示す指標のようなものだ。一方でモノを売ることは、製造者が直接販売を行う場合であっても輸入業者などを経て代理店もしくは販売店が販売をある種「代行」する場合であっても、商品が製造され、その場に提供されるまでのコストや販売するための施設費、人件費などを併せ含めたものが価格として設定される。相対的に定価の安い国の販売店で、大量に購入することで安価に商品を輸入すること、つまり並行輸入で安く売買することそれ自体の是非を問うつもりはない。私が疑問に思うのは、プレミア価格となるような商品を売買する場合、その余剰分の金銭は何に、誰に対して支払われるのか、ということだ。販売員として糊口を凌ぐ我が身を考えると堂々と言うことに躊躇いがないわけではないが、結論を先にすれば定価以上で販売されているものに関しては、私は購入すべきではないと思う。私は既に購入することを「敬意をもってその対価を支払う」ことと述べた。その考え方で言えばプレミア価格のモノを購入することは、一見すると余剰分の価値をそのブランドに見出していることに見えるが実際は違う。すなわちプレミア価格の余剰分の金銭は、販売者・製造者・ブランドのいずれにも支払われないのだ。プレミア価格で売買が行われるとき、余剰分の金銭は例外なくそれを仕入れることのできた「媒介者」にしか支払われない。世ではそれを転売屋と呼ぶこともあるようだが、私はそういった人々が何ともないような顔をして持ってくるモノを買い取ること、そして定価よりもはるかに高い値段で仕入れたモノを目の前にして「やっと見つけた」という表情で嬉しそうにしている人々へ販売することに、後ろめたさのような感情を抱かずにはいられない。この瞬間私はそのブランドを愛する資格を失ってしまう。悪いお金稼ぎをしているように思えてくる。「それにそこまでの価値はありませんよ。」と断言してしまいたくなる。目の前の人が湛える嬉しそうな表情が凍り付く瞬間を期待してしまう。そして、そこに私が存在していることが耐え難い苦痛に感じる。

こういうことを考えてしまう私は間違いなく会社(社会)にとっては害悪でしかない。だが私は労働という、常に狂気と隣り合わせであり、人間から詩的な感受性や哲学的な思考能力を奪い去ってしまうおこないでありながら、それでいて少なくともこの国では「義務」とされている行為を続けざるを得ない中であっても、自我を維持するために、そしていつでも物事の本質を見失わないために考え続ける。これは私が社会で何とかやっていくためのひとつの宣言だ。