wunderkammer : Etudes pour Ecriture

今の気分の備忘録、あるいは、過去の自分の生き直し

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「休みの日に何をしているか」という会話ほど困る話題はない。何もしていないわけがないし会話が終了してしまうので、いくら面倒であっても「何もしていません。」と答えるのはあまりにも人間として冷たい。かといって趣味の合わない人に自分がいかに自らの趣味に時間とお金と精力とをつぎ込んでいるかを語ったところで現代人に他人の趣味の話をゆっくりと根掘り葉掘り聞くような暇と余裕がないこともまた明らかだから。つまりこの話題はきわめて高確率で時間の無駄に終わってしまう。にもかかわらず、それでも、趣味の話をしてしまうのは、人がおのおの「自分だけの趣味」を持っていて、近しい感受性を持っている他人(いわば同志)を探しているからではないだろうか。とはいえ自分の(だけの)趣味を人に話すことは非常に勇気のいる行為で、なんというか小学生のころ授業中に先生に(かつ先生に向かって言うことによってその教室にいる生徒全員に)便意を伝える時のような恥ずかしさといったらよいだろうか、あるいは恋人に対して初めて自らの性器を曝け出し自分からそれを愛撫してもらうよう頼まなければならない状況とでもいおうか、いずれにせよ大きなリスクさえ伴いかねない。そんなリスクを負ってまで趣味の話はすべきことなのだろうか。と、ここまで考えて私は大きな仮定の立て間違いを犯している可能性に思い至った。つまり、多くの人にとって趣味とは仕事相手や同僚、地域の方など多分に政治的な意味合いを持った他人とのコミュニケーションツールとしての役割を担っているのではないだろうか。だとすると趣味の話はできるだけ多くの人と交わさなければ自分が持っているその趣味の意味がなくなってしまう。言い換えれば、趣味の話をすることそのものがすでにコミュニケーションのひとつであるという可能性だ。あるいは趣味が単なる暇潰し程度の役割しか担っていない可能性も有り得る。そうなると趣味の話はもう何の意味合いも持たない、いわば今日の天気の話くらいに交わされる挨拶のようなものにさえなってしまうはずだ。この3種類の趣味の在り方に序列をつけるわけではないが、私は後に述べた2種類の「趣味」と初めの「趣味」の間にはあまりに大きな隔たりがあり、初めに挙げたものとして趣味を捉えている人に後に述べたような趣味を持つことはできないし、その逆もまた然りだと思っている。そして往々にして前者に比べ後者の方が人生(の大部分を占めるところの労働)において成果(労働における報酬もしくは地位)を得やすいとも思っている。私は前者だ。かといって労働の義務を放棄して趣味の世界に耽溺するような勇気はないし、趣味を労働(お金)に還元できるほどの能力もない。自分自身が「そういう人間である」ことを自覚するだけだ。そういう人間の最後のプライドとして、趣味の話はそれがわかる人にしかしようとしないのかもしれない。音楽や絵画に命を救われた人であったり、映画や本の中の言葉を生活の指針にしている人としか腹を割って話せない私のような人間のことだ。そう思うとやはり「昨日休みだったけど何してたの。」という質問に恐れ、どんな回答をすればうまくその場を乗り切ることができるかをつい考えてしまう、通勤の電車に揺られる私のなんとも中途半端な姿を思い起こさずにはいられない。本を読むのにも勇気がいる世の中だ。