wunderkammer : Etudes pour Ecriture

今の気分の備忘録、あるいは、過去の自分の生き直し

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終電近くの電車の窓際に寄りかかり窓の外の暗闇に目を向けている。主要駅を過ぎた車両の座席にもう人はまばらだが、体を動かすのが億劫なため立ったままでいる。街灯が常に夜道を照らしているような町を随分前に通過したこの車窓が映し出すのは、景色というより、何色をも反射することのない、まさに漆黒の闇だ。

仕事を終えて疲れてしまうと何かを”見つめる”ことが難しく感じることがある。目がかすむという症状とは違い、じっくりと1点を見ることができなくなってしまい、ある一定の量をもった文字列を追うことが困難になるのだ。恐らく目が疲れていること以上に精神および脳周辺の情緒系統の何かが疲労を感じているためだと思うが、詳しいことはよく分からない。スマートフォンはそもそも持っていないから画面を眺めることで疲労感を高めてしまう心配はないのだが、こういう時は鞄に常備している本さえ読む気にはなれないため、両目の焦点を合わせないようにして、いわば視線を遊ばせている。何も見ていないし、何も考えていない。視覚から毎秒膨大な量得られる情報と、それを毎秒驚くべき速度で処理する器官とのやり取りをシャットアウトしてしまうのだ。私は本当によくこの「遊び」をし、仕事中などは上司などからたびたびこの表情を「顔が死んでいる」と形容されるのだが、その時の私の顔を私は見たことがない。どうなっているのだろうと思う。鏡のように自分の姿を反射している窓でその表情を確認しようとするが、視線をその「自分の姿」に合わせるた瞬間その表情は姿を消してしまう。

そういえば学生の頃片思いしていた女の子を、見つめることができない代わりにできるだけ長い時間自分の目に写しておきたいというわけのわからない欲求にかられ、視線の端の方で何となく姿形が分かる程度(もちろん個人を特定できるようなはっきりとした”像”ではなく、あくまで「あれがあの人だ」という意識)で見ていたのが思い出された。去来するのは懐かしさよりも、のどが詰まり心臓が少し捩れるような感じだ。そうするうちに目の前の暗闇がかき消され、目的の駅に電車が止まった。

都心から郊外へ下る電車がひとしきり吐き出した後の残滓が、ぽたぽたとプラットフォームに落ちた。アルコールにも乗り物にも酔っているわけではないが、私も何か吐き出したくなった。唐突に頭に浮かんできた歌をご近所のご迷惑にならないよう自分にだけわかる程度の小声で歌いながら帰った。