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楽しい時に自然に「楽しそうな顔」ができない人間と社会

同期ちゃんと飲みに行った。1時間半ほど彼女と酒を酌み交わし大皿を突きながら話した。「また飲もう!」と笑顔で別れた彼女を見送りつつ、私は体が重たく感じる程の疲労と「見たかったテレビ番組、もう間に合わないな。」というちょっとした絶望を感じていた。

両親の下学生時代を関西で過ごし(4年制の私立女子大に通い、在学中はアメリカだかオーストラリアにだか「留学」していたという)、卒業とともに上京した彼女。入社当初、仕事内容や人間関係に悩み毎日のように眼の下に隈を作っていた彼女は、今明らかに輝いている。聞けば「職場がこんなに笑いに溢れてるとは思わなかった。毎日が楽しい。」のだそう。

身近な人が明るく元気で、楽しそうにしているのはとても喜ばしいことだ。ただ、あまりにも仕事や生活に対する考え方が違うためか、彼女と長く話をしていると生気を吸い取られ心身ともに疲弊し、仕事への憂鬱と生活への絶望感が増してしまう。かといって彼女の輝く姿に嫉妬していることもなく、放つキラキラしたオーラを嫌悪しているわけでもない。むしろ「できることならこうありたい。」という羨望の眼差しを持って彼女を見ている(もちろんこの眼差しは、彼女の辛いことを発条に向上心を持って仕事に取り組むポジティヴ志向の精神や「きっといいことある」的な楽観的思考を心から「羨んでいる」反面、自らが抱え「てしまった」物事に対するネガティヴ志向の精神や「この先いいことなんてない」的な悲観的思考、もっと言えば豊か過ぎる感受性と繊細過ぎるナイーヴさを神聖なものとし、「自分はこんな考え方しかできませんから」と道化のように、不幸自慢調で、自らを卑下することで、逆説的にその精神的優位性をアピールしようとしてもいる、捻くれていて何とも情けない感情の裏返りでもある)。

とはいえ、私はどうやったとしたって彼女のような思考法・生き方にはなることができない。そして多分、人生や仕事、人間関係の度合いを測るレースがあったとすれば、スタートこそそれほど変わらないところにいたのに、いつかとんでもなく遠いところから背中を追いかけなければならなくなるだろう。どう育ったらこんなにも差が生まれてしまうのか。

それを若い頃に読んだ本や聴いた音楽、観た映画にお世話になった先輩、周りにいた友達や勉強していたこと、つまり育ってきた環境のせいにしてしまうのはあまりにも簡単だが、だいたいそれで合っていると思う。あとは親からの遺伝とかその辺りだろう。どうしようもないとしか言いようのないことが原因で、人は簡単に周りの人と噛み合わなくなり、見えなくなってしまった背中を追いかける無謀なレースに最後まで参加することを強要させられることになる。さらに恐ろしいことに、そうなってしまった人は「自己責任」で自らそうなったのだからそれまで、とするのが現在の社会だ。参加を強制し途中棄権も許されないのに、である。誰も助けてはくれないから何とかして必死に食らいつくか、自分を「社会」に適応していくために思考法を矯正しなければならない。

だが、多くの人々にとってはそれも無理である。これまでの人生を少なくとも否定し無かったものとしないために、彼らがこれまで触れてきた芸術や関わってきた人、そこから生まれた物事の捉え方を後生大事に取っておいて、「残りの人生はそれらを少しでも零さないように生きていく」ことを目的としている人が多いのではないだろうか。

マイナス思考で自分を卑下することによって、何とか肉体と精神のバランスを取りつつ、現実と思考のギャップを埋めている人間も少なからずいるだろう。こういう人間が否応なしに社会から弾きだされるのを見ると悲しくなる。あまりこういう政治的なニュアンスのある言い方をしたくはないが、多様性を求めているはずの社会に、その多様性のために社会から拒絶されているのだ。

 

毎日のように顔を合わせる身近な人には絶対に分かってもらえない感情を抱えて、それが爆発する日をただ待っている。どちらかといえば初めから絶望していたが、あまりにも、である。