意識高い系の人間共がいつかその「自意識」に潰される日を夢見て

3,4歳の頃だろうか、「大きくなったら○○になりたい」と将来の夢を語るようになってしまった。それ以来私は自己実現という強迫観念の虜であった。

 

「こうなりたい自分」に向かって努力すること、それを実現することが無条件の正義である世界にあって、あるべき人間の姿が意識の高い人々だ。

 

向上心を持ち、ストイックで真摯に努力を重ね、それでいて人生を楽しむ姿勢を忘れない人々。理想的な生き方ではないか。きっと幼い頃からその大小にかかわらず、夢と目標を持ち、ひとつひとつそれらをしっかりと実現してきたのだろう。

 

私はそんな人間にはどうあがいてもなれない。樹てる目標が実現していたのはいつ頃までだったろう、いつの間にかいくら努力しても目標は叶わないことの方が多くなり、次第に努力して勝ち取ることのできる目標を持つこと自体止めてしまった。今は毎日の仕事が何事もなく終わること、そしてその対価としてもらう給料で好きな服、本、CDを買い、映画や展覧会を見に行くためだけに生活がある。言ってみれば莫大な時間を犠牲に目標を金で買っているのである。

 

いや、この生活があるうちはまだよいのかもしれない。まだ目標と呼べるものが無くもないからだ。毎日辛くなっていく日々への潤いを自分の手で掴み取れている実感も無くはない。砂漠の砂に混じったほんの少しの砂金を探すような生活だが、人生とはそもそもそのくらいのものなのかもしれない。

 

だが、恐ろしいのはそれすらも無くなってしまった瞬間である。生活に潤いを与えてくれるようなモノは、恐らくそう多くない。一生モノの靴や鞄、コートをリストアップすると、3年ほどで殆ど買い揃えることができる。絶対に欲しいもの、これを買うためなら多少苦しい生活をしたとしても、多少仕事が辛くても、やっていける、というものが無くなるのである。

 

あと3年である。

 

多分それを買い揃えてしまったら、かつて自分の将来の夢を語った時から始まった自分の足で進む自分のための人生は終わる。自分の人生はいつの間にか自分の手を離れ、誰かのためにしか生きることができなくなる。その中で細々とした卑小な物欲を満たす取るに足らない買い物といつか夢見た自己を辛うじて保つことの出来る程度の芸術に触れるのみだ。

 

しかしどうだろう、その生活は夢の実現のための努力や理想像から乖離していく現実を目の当たりにした葛藤もない。結果はどうであれ、ロールプレイングは一旦エンディングを迎え、エクストラステージに突入している。夢や努力への期待は誰かに託すことができるのである。とても楽である。

 

いつまでも自分の人生に拘ることを「意識が高い」のだとすれば、いつかその自らの意識の高さに絶望してしまう前に、早いところ舞台から降りてしまえばいいと思う。社会人にもなって「自分を高めたい」だとか「目標をひとつひとつ実現させていきたい」だとか「向上心をもって仕事に取り組みたい」とか宣う人間がいるのであれば、早いところ己が限界を知って潰れてしまえばいい。そういう人間が身近にいるだけで息苦しいし、そうなれば少なくとも嗤いのネタにはなる。私はできるだけ早く誰かに、生まれてくる我が子なぞができればその子に、全てを託したい。

 

3年後、自分の生活がどうなっているか、自分の人生が誰のものになっているのか、楽しみでしょうがない。