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300円のコンビニの会計を急がせる人は300万円の腕時計を買うのにも店員を急がせる。

世界中の人がみんな何かしらの面で自分よりも優れていて、自分はその面に関しては全く疎いあるいは苦手な門外漢なので、その1点だけであっても自分よりも秀でている点を評して「尊敬すべき人」とすること。無邪気に周りの人を信用することを、高校生の頃まで本当に心からやって来た。あの頃は本当に「真に」限りなく近く、嫌いな人間なんていなかった。単に自分に自信がなく、人に嫌われる勇気もないというネガティブな面ももちろんあったとは思うけれど、そういう考えを以て人と接してきた、少なくとも接するよう努力してきた。

それから数年、住む場所も所属する社会も付き合う人も変わった自分に、あの頃と同じ心持ちになることができるだろうか。考えるまでもない。到底無理。「聖者かよ。」と心のどこかからツッコミが喰い気味に入ってしまうほど、滑稽なほど、無邪気な考え方。まるで当たり障りなく何となく共感できたり勇気づけられたりする言葉を連ね、耳触りの良い音を重ねて作られた、せいぜいひと月半ほどの「ヒット曲」を聴いた時のように、「人生舐めるなよ。」と零したくなる。

もしかすると昔は取り分け好きな人という存在もいなかったのかもと思う。女性と付き合ったって全然自分のことや好きなもののことなど喋らなかったし、特に話しかけられない限り周囲の友人との会話に這入り込んでゆくこともなかった。別にそれで不便を感じることも無かった。大学に入学し、東京でほとんど一人暮らしの生活がスタートするとそういったこれまでの環境が圧倒的に不利にはたらき自らを孤独ないし孤立へと導いていくことに気づき、慌てて会話を頑張るようになった。周りにいる、よくしてくれる人を「好き」にならないと沈黙、疎遠、孤立が待っている。

好きな人々にスポットライトが当たることで自然とその周辺が陰になるように嫌いな人ができた。そういうネガティブな理由から人を好きになる自分の弱さを真っ直ぐ否定することもできないから、嫌いな人を条件付けし、自分の正しさに逃げるための大義名分とした。「想像力のない人」と「心の余裕のない人」が嫌いになった(ことにした)。別に心まで読む必要はないが、せめて想像してみるという努力をせよ。そして数十秒横断歩道の前で立ち止まることを厭わない心の余裕を持て。

こういう信条を持っていたからか、売る側にいても買う側にいても、急がせる人が嫌いだ。300円のコンビニの会計を急がせる人は300万円の腕時計を買うのにも店員を急がせる。とても信じがたいがそういう癖がついてしまっているようで、例えば販売員として売り場に立っているとマニアックな質問攻めや唐突で身勝手な値段交渉を迫った挙句、会計が済むと「急いでるから早くして。」と当たり前のように言う人間が決して少なくない。そういわれた瞬間今まで築き上げてきたコミュニケーションの土塁が突如崩壊してしまうではないか。このひと言はどんなに尊敬に値する仕事をしていたって、他人よりもどれだけお金を稼いでいたって、どれだけ地位や名声があったって、その人の人間性をゼロ近くまで貶してしまうものだとさえ思う。ネガティブなところから始まった嫌いな人間の条件はこのように意外にもそれらしいところに落ち着いている。つまり、こういう人と付き合わなければ大体平和に過ごすことができる。

だが厄介なのは自分が今身を窶している「販売」という職業だ。どんなに嫌いな人間であるからと言って、目の前にいればその人と関わらなければならないし、その目の前の人がいいと思っているものは、自分たちが売っているものである以上「いい」と言わなければならない。一見単純なこれがどれだけ苦痛であることか。もちろん販売という職業にある以上、自分が取り扱っているものにはある程度の自信や愛着がある。言い換えればそれらは程度の差こそあれ、どれも「自分の好きなもの」であり、これが好きという感情はアイデンティティであり、(自分自身には自信を持つことができないけれど)これが好きな自分(の趣味taste、センス)が好き、という一種の自尊心でもある。その一種の自尊心であり、場合によっては今の自分の生きる指針ともなり得る「自分の好きなもの」を目の前の、初対面の、ものすごく嫌いなタイプの、たったひとりの人間に土足で踏み倒される感覚だ。あまりにも苦痛で、おそらくこれだけでも人ひとりを死に追いやることさえできるだろう。

「自分の好きなものを、自分の嫌いな人が好きであることの嫌悪感に耐えられません。」

こんな遺言だって、書けないこともない。少なくとも数年間勤めた会社を退職する理由としては有り得るだろう。好きなものを堂々と「好き」と言えなくなる、あるいは言いたくなくなるのは、悲しいことだ。嫌いな人が周りにいるのは仕方のないことだと諦めるとしても、そういう人と距離を置きたい。そして堂々と、素直に好きなものを心から「好き」と言いたいのである。本当に好きなものができたからこそ、こう思うのである。

楽しい時に自然に「楽しそうな顔」ができない人間と社会

同期ちゃんと飲みに行った。1時間半ほど彼女と酒を酌み交わし大皿を突きながら話した。「また飲もう!」と笑顔で別れた彼女を見送りつつ、私は体が重たく感じる程の疲労と「見たかったテレビ番組、もう間に合わないな。」というちょっとした絶望を感じていた。

両親の下学生時代を関西で過ごし(4年制の私立女子大に通い、在学中はアメリカだかオーストラリアにだか「留学」していたという)、卒業とともに上京した彼女。入社当初、仕事内容や人間関係に悩み毎日のように眼の下に隈を作っていた彼女は、今明らかに輝いている。聞けば「職場がこんなに笑いに溢れてるとは思わなかった。毎日が楽しい。」のだそう。

身近な人が明るく元気で、楽しそうにしているのはとても喜ばしいことだ。ただ、あまりにも仕事や生活に対する考え方が違うためか、彼女と長く話をしていると生気を吸い取られ心身ともに疲弊し、仕事への憂鬱と生活への絶望感が増してしまう。かといって彼女の輝く姿に嫉妬していることもなく、放つキラキラしたオーラを嫌悪しているわけでもない。むしろ「できることならこうありたい。」という羨望の眼差しを持って彼女を見ている(もちろんこの眼差しは、彼女の辛いことを発条に向上心を持って仕事に取り組むポジティヴ志向の精神や「きっといいことある」的な楽観的思考を心から「羨んでいる」反面、自らが抱え「てしまった」物事に対するネガティヴ志向の精神や「この先いいことなんてない」的な悲観的思考、もっと言えば豊か過ぎる感受性と繊細過ぎるナイーヴさを神聖なものとし、「自分はこんな考え方しかできませんから」と道化のように、不幸自慢調で、自らを卑下することで、逆説的にその精神的優位性をアピールしようとしてもいる、捻くれていて何とも情けない感情の裏返りでもある)。

とはいえ、私はどうやったとしたって彼女のような思考法・生き方にはなることができない。そして多分、人生や仕事、人間関係の度合いを測るレースがあったとすれば、スタートこそそれほど変わらないところにいたのに、いつかとんでもなく遠いところから背中を追いかけなければならなくなるだろう。どう育ったらこんなにも差が生まれてしまうのか。

それを若い頃に読んだ本や聴いた音楽、観た映画にお世話になった先輩、周りにいた友達や勉強していたこと、つまり育ってきた環境のせいにしてしまうのはあまりにも簡単だが、だいたいそれで合っていると思う。あとは親からの遺伝とかその辺りだろう。どうしようもないとしか言いようのないことが原因で、人は簡単に周りの人と噛み合わなくなり、見えなくなってしまった背中を追いかける無謀なレースに最後まで参加することを強要させられることになる。さらに恐ろしいことに、そうなってしまった人は「自己責任」で自らそうなったのだからそれまで、とするのが現在の社会だ。参加を強制し途中棄権も許されないのに、である。誰も助けてはくれないから何とかして必死に食らいつくか、自分を「社会」に適応していくために思考法を矯正しなければならない。

だが、多くの人々にとってはそれも無理である。これまでの人生を少なくとも否定し無かったものとしないために、彼らがこれまで触れてきた芸術や関わってきた人、そこから生まれた物事の捉え方を後生大事に取っておいて、「残りの人生はそれらを少しでも零さないように生きていく」ことを目的としている人が多いのではないだろうか。

マイナス思考で自分を卑下することによって、何とか肉体と精神のバランスを取りつつ、現実と思考のギャップを埋めている人間も少なからずいるだろう。こういう人間が否応なしに社会から弾きだされるのを見ると悲しくなる。あまりこういう政治的なニュアンスのある言い方をしたくはないが、多様性を求めているはずの社会に、その多様性のために社会から拒絶されているのだ。

 

毎日のように顔を合わせる身近な人には絶対に分かってもらえない感情を抱えて、それが爆発する日をただ待っている。どちらかといえば初めから絶望していたが、あまりにも、である。

中途半端な似非お洒落野郎のジャケットやコートの袖に縫い付けられたままのタグを蒐めて

いつだったか、しまむらからハリスツイードを使った商品が発売されて以来、身の回りのあらゆる秋冬物の商品に、これみよがしにハリスツイードのタグが付くようになった。本来(当たり前だが)ハリスツイードの価値はそのタグにはない(ファッションオタクが大好きな「そもそもこれは」的な薀蓄を垂れ流す必要は感じないのでこれ以上ハリスツイードの歴史について掘り下げることはしない)。あくまで「これは割とちゃんとしたツイード生地です」ということの証明であるのだから、どちらかというとセーターの首元に付いているウールマークのタグに近いものであったといえる。

そういった意味ではこの類のタグと同様に話題に上ることの多いマルジェラの数字が羅列されたブランドタグ(及びその裏側、すなわち服としては表側に出てくる4か所のステッチ)とは根本的にその意味が違う。後者はどちらかといえばラコステフレッドペリーのポロシャツ、ブルックスブラザーズや(ポロ)ラルフローレンのシャツの胸の辺りで静かにそのブランド性を主張している刺繍に近く、前者は産地や組成を標示しているタグでしかないはずだ。

 

ハリスツイードはブランドではない。しかしそのタグがそれ単体である一定の価値を持ち始めている。ハリスツイードがブランド化している。

 

例えば名のあるブランドであれば、個人的にはあまりこの考え方には賛成できないが、品質や産地とは関係なくこのブランドのこの商品を「持っている」こと自体に意味がある、ということが間々ある。デザイナーやブランドイメージ、それを愛用している有名人などブランド名(タグ)自体に意味と価値があるからだ。

ではハリスツイードタグはどうか。しまむらが安価な「ハリスツイード」を発表してから、必然的にその品質は低下している。というより、ハリスツイードを名乗ることが許される幅が広がり、元来そのレベルでないものまでもがハリスツイードであることが可能になっている。しかも、その品質を保証するための証明書のようなものとして、服の裏地に目立たないよう縫い付けられたり仕立ての行程で取り外されるはずのものが、まるでそこに存在すること自体に意味があるかのように洋服の目立つ位置に縫い付けられ、それがそのままの状態で着用されることが多くなっているのである。言い換えれば、そのモノ自体の価値は低下し、標示でしかなかったタグに意味が生じてきている。これが、私がハリスツイードがブランド化していると述べるゆえんである(もちろん必ずしもハリスツイードの商品がそう「でない」ように、多くのブランド品はモノの価値を蔑ろにして、そのブランドであることを示すタグだけに価値を見出させようとしているのではないし、私自身そういうことを主張したいわけでもない)。

こう言ってしまうとキッチュ論の方面へ話が流れてしまいそうなので深追いはしないがあえて述べておくとすれば、ハリスツイードの現状は、深層であるところの品質がすっぽりと抜け落ち、表層であるところの名前が強調されている。

こうハリスツイードをとりまく状況を整理していくと、この現象が何かに酷似していることに気づく。これはまさに「流行り」のメカニスムなのである。これまで考えてきたことをひと言で言ってしまえるとすれば、ハリスツイードは流行っている。そうだとすれば、流行が去ってそれに踊らされていた人々が正気を取り戻すかのように、もう一度しっかりとしたものづくりとスコットランドの良質のウールを使った良品であることの証明として、ハリスツイードのタグが燦然とその洋服の裏地の見えない部分に輝くことを願ってやまない。

 

そういえばこの間、某ショッピングサイトで「安心の国産ハリスツイード」という文句を目にした。しまむらがあの日崩壊させてしまったハリスツイードタグの意味は、とうとうここ(極東)まで流れ着いてしまっていたのである。

意識高い系の人間共がいつかその「自意識」に潰される日を夢見て

3,4歳の頃だろうか、「大きくなったら○○になりたい」と将来の夢を語るようになってしまった。それ以来私は自己実現という強迫観念の虜であった。

 

「こうなりたい自分」に向かって努力すること、それを実現することが無条件の正義である世界にあって、あるべき人間の姿が意識の高い人々だ。

 

向上心を持ち、ストイックで真摯に努力を重ね、それでいて人生を楽しむ姿勢を忘れない人々。理想的な生き方ではないか。きっと幼い頃からその大小にかかわらず、夢と目標を持ち、ひとつひとつそれらをしっかりと実現してきたのだろう。

 

私はそんな人間にはどうあがいてもなれない。樹てる目標が実現していたのはいつ頃までだったろう、いつの間にかいくら努力しても目標は叶わないことの方が多くなり、次第に努力して勝ち取ることのできる目標を持つこと自体止めてしまった。今は毎日の仕事が何事もなく終わること、そしてその対価としてもらう給料で好きな服、本、CDを買い、映画や展覧会を見に行くためだけに生活がある。言ってみれば莫大な時間を犠牲に目標を金で買っているのである。

 

いや、この生活があるうちはまだよいのかもしれない。まだ目標と呼べるものが無くもないからだ。毎日辛くなっていく日々への潤いを自分の手で掴み取れている実感も無くはない。砂漠の砂に混じったほんの少しの砂金を探すような生活だが、人生とはそもそもそのくらいのものなのかもしれない。

 

だが、恐ろしいのはそれすらも無くなってしまった瞬間である。生活に潤いを与えてくれるようなモノは、恐らくそう多くない。一生モノの靴や鞄、コートをリストアップすると、3年ほどで殆ど買い揃えることができる。絶対に欲しいもの、これを買うためなら多少苦しい生活をしたとしても、多少仕事が辛くても、やっていける、というものが無くなるのである。

 

あと3年である。

 

多分それを買い揃えてしまったら、かつて自分の将来の夢を語った時から始まった自分の足で進む自分のための人生は終わる。自分の人生はいつの間にか自分の手を離れ、誰かのためにしか生きることができなくなる。その中で細々とした卑小な物欲を満たす取るに足らない買い物といつか夢見た自己を辛うじて保つことの出来る程度の芸術に触れるのみだ。

 

しかしどうだろう、その生活は夢の実現のための努力や理想像から乖離していく現実を目の当たりにした葛藤もない。結果はどうであれ、ロールプレイングは一旦エンディングを迎え、エクストラステージに突入している。夢や努力への期待は誰かに託すことができるのである。とても楽である。

 

いつまでも自分の人生に拘ることを「意識が高い」のだとすれば、いつかその自らの意識の高さに絶望してしまう前に、早いところ舞台から降りてしまえばいいと思う。社会人にもなって「自分を高めたい」だとか「目標をひとつひとつ実現させていきたい」だとか「向上心をもって仕事に取り組みたい」とか宣う人間がいるのであれば、早いところ己が限界を知って潰れてしまえばいい。そういう人間が身近にいるだけで息苦しいし、そうなれば少なくとも嗤いのネタにはなる。私はできるだけ早く誰かに、生まれてくる我が子なぞができればその子に、全てを託したい。

 

3年後、自分の生活がどうなっているか、自分の人生が誰のものになっているのか、楽しみでしょうがない。

M.A.T.U.Y.A.

残業で疲れた日、休日何もする気が起きず朝昼の食事を抜いた日、深夜のテレビで見る料理が異様に美味しく映る日、足が向くのは専ら松屋だ。昨年末の「白菜と鶏肉のクリーム煮定食」は気が狂ったように通っては、毎回W定食(930円)で、食べた。

 

その「クリーム煮定食」が販売終了となった今は牛丼ばかり食べている。

牛丼の食べ方には自分なりのこだわりがある。特盛で注文し生卵をトッピング、割った生卵は軽く混ぜ大量の七味とその日の気分でタレ(カルビ、バーベキュー、ポン酢)を入れる。半分ほど食べた丼にそれを入れ、残りを掻き込むスタイルだ。健康や栄養などと引き換えに満足感や幸福感を得られるこの一食のために生きている、と思うこともある。

 

先日国分寺紀伊國屋書店で3冊ほど書籍をもとめた帰り、ふらつく足取りで駅前の松屋に入った。この日も朝からまだ何も口に入れていなかったのだ。店内はなかなか盛況でいずれもおひとり様7、8人程が各々自らの食欲を満たすためだけの食事を、している。店員はみな日本人に見える。ここのところどの松屋に入っても日本語も覚束ないような外国人の店員が店頭の最前線でオーダーを取っている(これはこれで好きではある)のが当たり前の光景なので、少し珍しく思う。いつものように牛丼の特盛と生卵を注文し独り黙々と食べ始め、生卵になみなみと七味を振り掛けながら(今日はカルビの気分だな)と調味料が並ぶ棚に視線を移した頃、背後から不穏な独り言が聞こえ出した。「おい、何だよ畜生。」と店内のBGMにかき消されるか否か程の悪態である。ほどなくしてその悪態を吐いた男が店員を呼び出す。やりとりに聞き耳を立ててみるとどうやら男は券売機に1万円札を入れ、途中で注文を取り消そうとしたのだが入れたはずの1万円札が返ってこない、ということらしい。この時対応していた店員は気の優しそうな「普通の男性」で、丁寧に謝罪をし、券売機を開けて中をチェックしているようだ。「申し訳ありませんでした。ご注文はいかがなさいますか。」と尋ねる店員に対し男は「いやもういいから。とりあえず1万円返して。」「ったく、何なんだよ。」と荒々しい言葉を投げかけ店員が渡そうとした1万円札を引き捕えるように攫み足早に店を出て行った。

 

この間わずか1分強程度だろうか。どう考えても怪しかった。松屋の店舗は入り口の左右それぞれに券売機があるが、1万円札を投入することができるのはどちらか片方のみである。入店し、財布から1万円札を出しながら1万円札を投入できる券売機を探し、1万円札を投入、「やっぱり取り消そう」と思い至って返却ボタンを押すまでの時間を考えるとあまりにも短すぎる。食券のシステムを利用した屑人間が詐欺を働く瞬間を目の当たりにしたのかもしれない。後々でいい、店舗の責任者が監視カメラを見直し詐欺であることが確認され、警察の技術により即犯人が特定され大した手間もかけず捕まってほしい、と本気で願った。残り半分程になった牛丼を掻き込みながら。

満腹になって店を出る時(こうだけはなりたくないな)と思いながら、私は何故か少しだけ晴れやかな気分になっていた。食欲が満たされたから、だけではないだろう。目の前に(かつ自分とは関係の無いところで)肯定すべきところのない全うたる屑人間、という恰好の蔑みの対象が現れたのである。醜い。あの男だけではなく、彼の所業を素知らぬ顔で盗み見、それに頭の中だけで正義の鉄槌を下し、気分良くなっている私の、捻れた気味の悪い欲望が醜い。

 

とはいえ、この味は忘れがたいのである。生活には全くと言っていいほど楽しみがない。生活の隙間から漏れ出てくる「蜜の味」を求め、眼をぎらつかせ腹を空かせながら彷徨うように生きていくしかないのだ。かつて「こうだけはなりたくない」と思っていた人間に、いつの間にか私もなってしまっているのである。